あひるのえほん
SINCE 2000.9.7
アヒル
--1--
三角形の屋根の上に、綺麗で幸福な世界があってほしかった。
叔父にあてがわれた部屋は、ひどいわけでも、汚いわけでもなかった。
八畳の広さがあって、窓もたった一つだが大きかった。
叔父が気をきかせて塗ってくれた壁は、明るいグレーで、たたえていた。
不器用な屋根裏の三角形の部屋は、それだけで幸福になる材料を与えてくれていた。
--2--
アヒルは、マットレスの上で煙草をくわえていた。
ジーパンの裾から出ているほつれた糸くずをライターで燃やした。
細く長い髪を目の前から追いやり、掌を頬に押しつけた。
幸福になったら、何もなくなった。それが怖かった。
あてはなかったが、ただそう思った。
--3--
窓は開けられたことがなかった。
すりガラスの向こう側の風景をアヒルは知っていた。
雀がニ、三羽さえずっていて、ブロック塀と緑の木々があるはずだった。
それは明るかったし、心地良かった。
白いシャツとストレートの長い髪は、その風景によく似合った。
いつも待っていたものが、そこにあるような感じだった。
--4--
笑って手を伸ばした。
瞳をちょっと見開いて、笑いながら手を差し出し返してくれた。
緑の毛糸の帽子を、アヒルは気に入った。
男の子は太郎といった。
女の子はアヒルだった。
--5--
面白い言葉。
優しい言葉。
穏やかな言葉。
言葉にしなくてもわかる言葉。
イメージが大きくなっていたかもしれなかったが、アヒルは太郎といたがった。
自然だった。
なぜか身構えることがなかった。
緑の毛糸の帽子は、いつもアヒルのポケットに収まっていた。
--6--
嘘と小細工を知りたくなかった。
それは誰も知らないように思えた。
手をつないで歩いた。
--7--
いつもモッズコートを着ていた。
ひょろっとした後ろ姿がよかった。
太郎の笑い顔がいつも頭にあった。
頭を撫でられるのが好きになった。
見上げるのも好きになった。
--8--
うたをうたっていた。
声を出していなくてもうたっていた。
二人ともうたっていて、二人ともそれを知っていた。
うたが聞きたくても、誰もうたっていないことがよくあった。
でも今はうたっていた。
--9--
知ってることと知らないことがよくわかった。
電車の座席に隣合って座った。
何かをわかった。
公園前で降りた。
芝生が光っていた。
すわって、両手をひろげた。
全部わかった。
--10--
出会いたがっていたことを思い出した。
何に、誰に、知らなかったが出会いたがっていた。
本当はその理由を知っていた。
そんな気がした。
全部、うまった。
二人でいた。
--11--
太郎がおどけた。
体が揺れていた。
ケラケラ笑った。
アヒルはキスをした。
太郎は穏やかに抱きしめた。
--12--
何もなくならなかった。
すべてがなめらかに光っていた。
そうなってよかったと思った。
ふたりともそう思った。
--13--
幸福になろうと思えば、いつでも幸福になれる。
そんなことは知っていた。
とても嫌いだった。
何か苦しかった。
夜が消えた。
太郎は望んでいたようになった。
--14--
不自然に引きずっていた。
言い訳を持ち歩いた。
よく、けらけら笑った。
はじめて二人で眠った夜、太郎はずっと泣き続けた。
--15--
なくてはならないもの。
どうしても、そこにあってほしいもの。
本当に、そう思ったもの。
アヒルが横にいた。
全てが求めていたし、全てがそれを許していた。
そんなものがあった。
--16--
出会って、手をつないだ。
出会ったのは幸福になるため。
辿っていく道がはっきりとみえた。
アヒル、太郎、帽子、コート、全部。
おわり